山田 毅 初段(伊豆西道場)
〜2009年12月20日取得〜

 私と極真空手の出会いは、今から8年程前の事でした。 いつものように新聞を開いてみると、一枚の広告が目に飛び込んできました。 それは赤い文字で『極真カラテ公開稽古』と書かれていました。 沼津に本部道場が存在する事は知っていましたが、「まさかこんな田舎に?すごいなぁ」などと 驚きつつ、当時小学校4年生の娘を連れて見学に行く事にしました。
 公開稽古では、少年部による基本と型を始め、鍋田先生の四方割りに圧巻されました。 娘は食が細く、華奢で気も弱かったので、これは入門するしかないと感じると同時に、 どうせなら親子で入門しようと感じたので、少し不安でしたが、次の稽古日に早速入門しました。
 入門当時は、体が硬くて体力もなく、思いどおりに動けませんでしたが、娘と道場に通うことが 楽しみで、毎回休まず稽古を続けました。 入門してから3ヶ月程で、伊豆長岡道場にも稽古に行くようになりました。 スパーリングの稽古では、先輩達によく上段蹴りをもらったり、腹をきかされたりして、 それ故、しばらくすると自然と受けもできるようになっていました。
稽古がつらいと感じる時もありましたが、そんな時はいつも「いつか自分も鍋田先生のように 強くなりたい。少しでも近づくんだ。」と自分に言い聞かせていました。
 また私は、道場内の一般部の中でも1番体が小さく、組手ではいつも押され気味だったので、 みんなと同じ量の稽古をしていても駄目だと思い、他の人が休んでいても自分は決して休まず、 2倍・3倍の努力をして、且つ先生の稽古を信じ、試合や行事に参加しながら一生懸命稽古を 続けました。仕事と稽古を両立させ、充実した生活を送っていると、気がつけば親子で茶帯に なっていました。
 茶帯になった年に出場したチャレンジカップでは、ヤングマスターズの部で優勝する事も できました。その喜びは今でも覚えています。
 それからしばらくして、鍋田先生から「そろそろ昇段審査を考えた方がいいですよ。」と いう言葉を頂きました。最初は躊躇しましたが、これを機会に挑戦してみようと感じ、 型の審査を受けました。
 案の定保留と言う結果でしたが、これによってもっと練った稽古をしなくてはいけないと 改めて感じ、基本を中心に体作りをしながら稽古をしました。
 それから2年後の春、再度審査を受けました。先生から合格という連絡を頂いた時は、 体の奥から力がみなぎってきました。
 しかしそんな喜びも束の間、大不況という大波は、とうとう私の勤めていた会社にも押し寄せ、 会社は倒産してしまいました。それでも私は、家族に迷惑をかけましたが、空手を 続ける事をあきらめずに昇段審査の十人組手に挑戦する決意をしました。
 再就職の口は、なかなか見つかりませんでしたが、審査の2ヶ月程前に、親戚の紹介で 県外ですが再就職をする事ができました。仕事の関係上、なかなか自宅へは帰れず、思ったような 稽古もできず、何度もくじけそうになりました。
 しかしながら、大石最高師範のおっしゃっていた「畳一枚でもそこは立派な道場だ。」という 言葉を思い浮かべては自力本願で稽古をして、この逆境を乗り越えてこそ意味があるんだと 自分に言い聞かせて過ごしました。
 審査会当日、私は、「一人目から全力で行こう。ボロボロになってもいいから自分の全てを出し切ろう。 ペース配分を考えたりせず、対戦相手に手を抜いてもらうような組手だけは絶対にしないぞ。」と 心に誓いました。緊張の中名前を呼ばれたのを聞き、且つ黒板に書かれた自分の名前を見て大きく 深呼吸しました。
 組手が始まりました。四人目が過ぎた辺りから、とても苦しくなりました。しかしそれは、 ここからが本当の組手のスタートであり、どんなに辛くても絶対逃げてはいけないと感じました。 七人目が終わった辺りでは、開いた道着を自分で直せない程辛かったです。 くじけそうになった時、芹澤事務局長より激励のお言葉を頂き、再び闘志が沸いてきました。
大石最高師範、芹澤事務局長に握手をして頂いた時には感謝の気持ちでいっぱいになりました。 そして主審をして頂き、1番近くで見守って下さった鍋田先生との写真撮影の時は感無量で 涙が溢れました。夢を現実にする事ができたのです。
 今回の昇段審査において、極真という道程にある初段という門を開けさせて頂く事を許されました。 しかし、これからも立ち止まる事なく、あの赤い文字の広告を思い出し、努力・精進して参ります。
最後になりましたが、この場を設けて下さった伊豆西道場・長泉道場・伊豆長岡道場の道場生の 皆さん、並びにご父兄の皆様、本当にありがとうございます。

押 忍