海野 孝 六段(竜南道場)
〜2014年03月02日取得〜


 
 「初心の心・必死の姿・必死の力」

  国 際 空 手 道 連 盟  極 真 会 館
  世界総極真 大石道場  師 範 海 野 孝(六段)

 この度は、世界総極真公認審査会において 六段・60人組手 への挑戦の機会を頂きありがとうございました。

 2009年2月15日に50人組手を行って五段に昇段してから5年が経ちました。五段となり師範と呼ばれるようになって、自分なりに責任感も持ちました。師範・師として模範になるように道場生を導くというよりも、師という字には戦いという意味もありますから、いつでも戦えるように日々研鑽を怠らないという模範になろうと思いました。自分の師である大石代悟最高師範が、日々稽古を怠る事がないように、私もこれを機に短い時間でも休む事なく毎日稽古する事を心掛け実践してきました。それが師範としての道だと思ったからです。

 2011年8月、この時より毎日の稽古を今まで以上に真剣に取り組むようになりました。しばらく遠ざかっていたウエイトトレーニングも再開して、この2年7ヶ月で、体重も70sから77s、パワーも最高時の7~8割位まで戻しました。勿論ウエイトトレーニングの為のウエイトでなく、空手に活かす為のウエイトトレーニングです。技のパワーアップ・スピードアップだけでなく、昨年の公認審査会で今城先生が40人組手挑戦中20人目でアキレス腱が突然切れてしまったように、私も今城先生と同年齢なので60人組手の最中何が起こるか分からない訳です。その為にも攻撃できない最悪の状態になっても、最後まで相手の攻撃を身体で受け止める事ができるように、筋肉の鎧を纏う事にしました。

 五段を許された直後「ここで留まっていてはいけない、5年後には六段を目指すんだよ。」と大石最高師範に言われました。そして、六段への挑戦を正式に言い渡されたのは、2012年11月1日でした。世界総極真発足の時です。「総極真の為にも体を張ってくれ。2014年に60人組手をやってくれ。」この時よりさらにハードな稽古を積みました。若い頃のように一度に長い時間の稽古は集中力を欠くので、短い時間でも集中して、月・火・木・金 週4回は、午前1時間・午後1時間・夜1時間半と日に3度の稽古を行いました。2013年〜2014年の暮れから正月も、大晦日は単なる火曜日、元日は単なる水曜日ととらえいつも通りでした。公認審査が近づく頃には、朝目が覚めると稽古のきつさで憂鬱になっていました。早く終わりたい、このつらい生活から逃れたい自分がいました。30人組手の時よりも、50人組手の時よりもはるかに追い込みました。なぜそれができたかといいますと、50人組手完遂後、大石最高師範より過分なお褒めの言葉を頂いておりましたが、自分自身は大変悔いの残るもので、この5年間悶々としていたからです。理由は、闘争心に欠け、燃えるような戦いでなく静かなる戦いで、淡々と戦った感があったからです。そしてある時、大石最高師範に「前回の50人組手は、過分なるお褒めの言葉を頂きましたが、自分自身は納得ができていないので、今回の60人組手は、村正直弟子の意地とプライドと闘争心で戦います。」と生意気な事を言いました。大石最高師範は気を悪くされたのではないかと思いました。その後、大石最高師範から「淡々と戦うんだよ! 強くなければ淡々とは戦えないんだよ! 強いからこそ淡々と戦えるんだよ!」と言われてしまいました。自分の師からは淡々と戦えと言われたものの、燃えるような戦いを望む自分がいて… 最終的にはあれこれ考えず、本能のまま、その時その時の反応のまま、変幻自在、流れる水の如く自然な形で戦おうと決めました。

 2014年1月9日組手の稽古中に、右大腿部に相手の膝頭がぶつかり、筋繊維断裂のひどい肉離れをおこしてしまい3日間ほど歩行不能になりました。オーバーワーク気味だった為、きっと神様がこのままでは当日まで身体がもたないから怪我をさせたんだと思い、焦る事はありませんでした。できる稽古は休む事なく続けていました。

 2月に入りまたハードな稽古を始めた矢先、左肩に違和感がありました。数ヶ月前から気にはなっていたのですが、左肩にシコリがあったのです。それが日に日に大きくなってきていました。60人組手が終わってから病院に行こうと思っていましたが、傷みが増してきてしまい、このまま60人組手に挑戦しても途中で何かあったらと思い、急遽病院で受診しました。公認審査会2週間前の2月15日のことです。簡単な手術で切開して腫瘍を取りました。医師は「激しい運動はしないように、そこには打撃を受けないように」と言いましたが、1日だけはおとなしくして翌日からはいつも通り稽古を続けました。肩からは血と膿が流れながらです。大石最高師範には大変心配をお掛けした事と思います。

 公認審査会2日前に、大石最高師範より「初心に帰ること。」「初心とは必死の姿である。」「長年修業してきた者だけが、初心に帰る事が出来るんだよ、空手歴3年の人間の初心と、修業歴30年以上の人間の初心は違うんだよ。初心に勝る力はないんだよ。常に謙虚で初心を忘れない事だね。」というお言葉を頂きました。必死の姿か、後先考えない命懸けの事だなとさらに覚悟を決めました。

 そしてこうも仰いました。「60人組手当日だけが60人組手ではないんだよ、それに向かう毎日毎日が60人組手なんだから、毎日毎日それに向かって戦って来たんだから大丈夫だよ。」そして最後に一言、「海野ならできるよ。」大変嬉しいお言葉でした。大石最高師範が、支部長就任を大山総裁から言い渡された時、「君ならできるよ。」と大山総裁が仰ったという話を聞いた時の事を思い出しました。そして、さらになんとしてでも、どんなことが起ころうともやり遂げる事を強く決心しました。

 審査会当日も数日前もまわりが思うほど緊張はありません。それよりも嬉しい事があります。それは、きつい事に挑戦する前から当日にかけて、極真会館・大石道場・大石代悟最高師範から「俺の大石先生」に戻るからです。どんなにきつい事への挑戦も目の前で俺を見守っていてくれる「俺の大石先生」がそこにいるから苦になりません。

 審査会当日は、まず始めに受審者一人ひとりを大石最高師範自ら会場に集まった人達に紹介しました。茶帯から黒帯そして最後に私。「海野師範は外には出ないけど誰もが認める存在感だから改めて紹介の必要もないけれども、海野師範とはね、40年前だね、まだ高校生だったね、極真カラテにプロカラテ部門があった頃、静岡で興行を行った時に会ったんだね。」そのような紹介でした。40年前、私が17歳で大石最高師範が24歳。大山総裁をまだ大山館長と呼んでいて、けんか空手極真旋風を世間に巻き起こしていた時代です。今とは違い、腕自慢、喧嘩自慢、強くなりたい男たちが全国から集結していた時代です。

 紹介の後は、例年通り、準備運動〜基本稽古〜型へと進行しました。我々の審査会ではありましたが、大石最高師範が、「もう一緒に型をやる事はないかもしれないから」と仰り一緒になって型を行ってくださり良い思い出になりました。その後、補強運動。60人組手の事は考えずペース配分せず準備運動から全てを全力で行いました。それで組手をする力が落ちたらそれまでの事です。それが今の自分の実力という事です。そして茶帯の10人組手〜初段の20人組手が行われ、最後に60人組手となりました。

 60人組手にあたり、普段指導している中学生男子の道場生達に、事前にセコンドを頼みました。それには意味がありました。幼年部または小学校低学年から始めた男子が5〜6年稽古を積み、弱々しかった男の子から元気な男子になり、子供ながらに男らしくなってきますが、どうしたことか中学生になってしばらくすると、その面影は消え、なよなよした中性に変わり、「中学生になっても空手を続けます。空手もクラブも勉強も頑張ります。」と宣言したはずなのに、やれクラブが忙しい、勉強が大変だと言い訳をし泣き言を言い出しあきらめます。そんなことが何年にも亘っています。今回、60人組手で戦う背中を一番間近で見せる事によって、「言い訳はしない。泣き言は言わない。最後まであきらめない。」そんな事を私の戦う姿を通して伝えたいと考えたからでした。

 午後4時頃、60人組手の時間になりました。開始前、すぐ後ろにセコンドの中学生達、その脇に道場生達を控えさせました。その横には道場を離れていった昔の門下生・父兄・大会顧問の議員さん達・同級生・普段私を支援してくださる大勢の人達と家族の姿がありました。

 大石和美先生の「正面に礼」の号令のもと1人目が始まりました。いくら稽古を積んできても、何度も連続組手を経験してきても、いつも3人〜5人目くらいできつくなり、「あれ、こんなはずじゃなかったのに大丈夫かな。」と思います。今回もいつもと同じでした。15人目までが非常に長く感じました。そして25人目までがさらに長く長く感じ、ホワイトボードの正の字を追いながらでした。その後40人目位まで序々に調子を上げましたが、残すところ20人ぐらいから、右膝が伸びた様になり、右脚の踏ん張りが効かない状態のなかでの戦いでした。かえってその方が良かったと思います。万全の時よりも本気になれるからです。その時からは、正の字も人数も対戦相手も関係なくなり、無心で本能のままに必死で戦い続けました。「初心の心・必死の姿・必死の力」です。痛めている右脚で上段回し蹴りの技ありを取るたびに歓声が上がっていましたが、右脚を軸足にできないため左脚では蹴れないわけです。ですから右脚での蹴りになったのです。

 正面席に目をやると、時折、目を伏せ「あぁ、見ていられない、もういい、海野、無理するな、もうそのくらいでいいから。」という大石先生と、「極真カラテはけんか空手だ!相手が強ければ強いほど反応できるのが極真だ!総極真の為にももっといけ!どんなことをしても完遂しろ!命懸けろ!」という大石最高師範が交互に居たような気がしました。大石最高師範をはじめ私の関係者すべての人達が祈るような思いで見ていたのではないかと思います。そして、いよいよ60人目。最後の戦いになりました。 対戦相手は苦楽を共にしてきた狩野央康先生です。狩野先生が皆に向かって一礼して登場しました。私も「セィヤ」と気合を発し最後の戦いの場に挑みました。「正面に礼」の号令は聞こえてはいましたが、最後だけは正面でなく斜め左前方の大石先生に向かい十字を切りました。「始め」の号令とともに、いま持っている全ての力で右の拳・左の拳・右の蹴り・左の蹴りを必死の姿・必死の力で撃ち込みました。「やめ」の合図とともに完全燃焼しました。そして対戦者狩野先生と固い握手を交わしました。始まってから1時間38分23秒の時間が経過していました。最後に大石先生と師弟の握手を交わし、俺の大石先生は極真空手・大石道場・最高師範 大石代悟に戻り、私は村正直弟子から大石道場・師範 海 野 孝に戻りました。

 応援していただいた皆さん熱のこもった応援ありがとうございました。対戦相手を務めていただいた皆さんありがとうございました。感謝いたします。60人組手は対戦相手の方々にやらせていただきました。とはいっても誰にでも簡単に完遂できるという生易しいものではありません。皆さんも、現状に留まる事なく前進して下さい。

 公認審査会終了後、大石最高師範より、「身体も気迫も闘志も50人組手の時よりもずっと良かった。最後まで気迫があった。」とお褒めの言葉を頂きました。大石最高師範の期待に少しばかりは応えられたのではないかという安堵感、60人組手完遂したという達成感、50人組手後の悶々としていた気持ちが晴れた満足感、充実感などでいっぱいでしたが、数時間後の床に着く頃には、「ああすればよかった、こうすればよかった、こうもできたはずだ。稽古した事の半分も出せていない。2~3割しか出せなかったのではないか、もっと出来たはずではないのか」と次から次へと反省点が浮かんできて、身体は疲労しているはずですが、あまり眠る事無く朝を迎えました。そういう時も、大石最高師範の教えが浮かびます。「修業とは、出直しとやり直しの繰り返しである」。「体験・経験が反省を生み、反省が成長へと繋がる。」「自分で自分に見切りをつけない・限界は自分の思っているはるか遠くにある。」「努力は無限・継続は力なり。」また明日からやり直そうと思いました。

 昨日のダメージはあるものの今日は絶対に道場を休む訳にはいきません。私の任されている竜南・静岡北・美和・城北道場では、審査会・合宿・大会等行事の翌日の稽古は4道場合同稽古で全員集合(保護者も)して行います。稽古の後は反省会です。この反省会まで含めてが、審査会・合宿・大会であると教えているからです。この教えも入門間もない頃、大石先生から言われました。「一番道場に行きたくない時こそ行くんだよ!そうしなければ強くなんかなれないんだよ!強くなる奴はね、大会の次の日から稽古してるんだよ!」ですから今もその教えを守っているわけです。 正座こそできませんでしたが、準備運動から基本稽古といつも通り、普段通り、何事もなかったように行いました。狩野先生をはじめ黒帯指導員が何人もいますから代わってもらう事は出来ますがこういう時は代わりません。必死の姿で立ち、必死の力で行いました。これも普段の教えで、「極真カラテをやっている人間は不死身である。」と常々言っているからです。

 日本だけでなく世界中に極真カラテを学ぶ人達がいますが、どのくらいの人が良き師とめぐり逢えたのだろうか? 幸い私の場合は、大山倍達・直弟子なおかつ内弟子、大石代悟 極真会館・総本部指導員に憧れ、その方から極真カラテを学びたいと思っていたところ、運よく静岡県支部長に就任され私の思い通りになり弟子入りができました。静岡県支部長が別の方が任命されていたならば入門はしていませんから今の私は存在しません。20代〜30代の総本部指導員時代〜支部長時代、30代〜40代の先生〜師範、40代〜50代〜60代(現在)の師範〜最高師範時代と長きに渡り間近で、大石代悟という空手家を見て来ました。それは、誰よりも大山総裁を尊敬し、極真カラテを愛し、日々稽古を怠らず自身のカラテを絶対に錆び付かせず初心の心を忘れない姿でした。

 大石代悟という空手家の背中を追いかけながら、日々修業の道を歩ける事に感謝し、今後も村正直弟子として、後ろから黙って歩き続けます。

                             押忍。                                                        平成 二十六年 五月 五日